村上春樹とワンダラー

※mixiなどで携帯で読んでくれてる人、毎回長文でゴメンね…

村上春樹の小説を読んでいると、今いる現実が本当の現実じゃないような、ぐらっと揺らぐような感じがする時があって、精神状態が不安定になります(^^;
きっとみんなそうだよね?

20代の頃に夢中になって読んでいた村上春樹を、今、長女が読破するとか言って読んでいるので、家のあちこちに春樹本が散らばっています。

大半は私のですが、私も全部は揃えてないので、時々、図書館から借りてきたのがそのへんに放置してあって、今日は「スプートニクの恋人」を読みました。

相変わらずの春樹ワールドで、なにいってんだかわかんない部分もいっぱいなんですが、どうしてこうも春樹本に惹きつけられるかに思い当たりました。

「ぼく」と私自身に共通点があるんです。。

「ぼく」っていうのは春樹本の大半に登場している主人公で、全部同じとはいえないけど、どれもかなり似ています。。

「スプートニクの恋人」には下のような文章があって(講談社文庫版の294ページです#検索用)

「ぼくは子供の頃からずっと一人で生きてきたようなものだった。家には両親とお姉さんがいたけど、誰のことも好きにはなれなかた。家族の誰とも気持ちが通じあわなかったんだ。だから自分のことをもらい子じゃないかって想像したものだ。事情があって、どこか遠くの親戚からもらわれてきたんじゃないかって。あるいは孤児院からもらわれてきたんじゃないかって。(…)ぼくは自分がその家族たちと血がつながっているということが、うまくのみこめなかったんだ。それよりむしろこの人たちはまったく赤の他人だと思った方が、ぼくにとってはらくだったな。
 (…)ぼくは部屋に一人でこもって本ばかり読むようになった。まわりの世界よりは、本の中の世界の方がずっと生き生きしたものに感じられた。そこにはぼくが見たこともない景色が広がっていた。本や音楽がぼくのいちばん大事な友だちになった。学校でも親しい友だちは何人かいたけど、心を開いて話をできる相手にはめぐり会えなかった。毎日顔を合せれば適当に話をして(…)なにか困ったことがあっても、誰かに相談なんかしなかった。一人で考えて、結論を出して、一人で行動した。でもとくにさびしいとも思わなかった。そういうのが当たり前だと思っていたんだ。

今あらためてこういうのを読むと「やだ、これアタシじゃん」ってびっくりします。
私にしてみれば、物心ついて以来ずーーっと抱えてきた「こういう感じ」を、20代とかでいきなり、本の中で見つけると、もう長いこと求めていた友にようやくめぐり会えたようなうれしさ、懐かしさで、だから文学を読まない私が春樹だけは夢中になって読んでいたんだなぁ…と、分かります。

他の本の「ぼく」も同じかどうかわかりませんが、多くは、失語症になってみたり、数を数えるのにとりつかれたりと、なにかしらの「障害」を体験しているように思います。

当事者にしてみれば、そういうのは生きにくさの根源ではあるけど、同時にアイデンティティの根源でもあるので、トラウマだの何らかの病気あるいは障害だから治さなくてはというように、本人の許可なく治療の対象とされるのはごめんこうむりたい領域。

私が自分のことを「天から降ってきた宇宙人」と表現するのはこういう感覚を元にしているんですが、もちろん比喩みたいなもので、現実空間で宇宙人に会ったことがない以上、自分が宇宙人かなんて分かるわけないです。

だけど、証明できないから否定しようとするのは自由だけど、否定されたからって、元となっている「そういう感覚」が私の中から消えてなくならない以上、他の説明を作り出すだけのことなので、何の意味もないですね。。

否定されると思えば言わなくなる。それだけのこと。「ぼく」のセリフじゃないけど、私も今までの人生、ずっとそれの繰り返しだったわけで。いまさらどうってことないすけど。。

ちなみに、長女に村上春樹の本を「面白い?」って聞くと、「うーん…とりあえず最後まで読める」とかって反応で、じゃあなんで読んでるの?って感じなんですが、大学が国文学科なのに、正直、3年間俳句のことだけ考えて生きてきて、本なんてひとつも読んでないので、入学後に困るといけないとか思って、「ネタ仕入れ」的に読んでるみたいです。

邪道ですね(笑)
でも読まないよりはいっか。。

でもアタシの現役の時は、カッコイイ文学者といえば三島由紀夫あたりだったのが、今や村上春樹なんだなーって、奇妙な感じ。
(私、自慢じゃないけど三島由紀夫一冊も読んだことないス)(・・;)

なにせ私の大学時代は、まだ村上春樹デビューしてなかったもんねぇ。。
それが今や世界中で読まれている大作家ですからねぇ。。
(最近、年を感じる…)

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