時間は未来から過去へと流れると考えたときに起きるコペルニクス的転換について

筆文字つとむが、中部経済新聞に掲載していただいたようです。
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たまたま、呼んでいただいた女性社長の勉強会が、中部経済新聞主催の会だったようで、自動的に載せていただきました。ラッキー♪
さまざまな出会いに支えられて、つとむは幸せ者です。

ところで、「未来」ということについて、最近、つらつら考えています。
苫米地英人が言うように、時間は、未来から過去に向けて流れているのだとしたら。
今、あれこれ考えて、自分なりに、これなら成功するだろうと思ってやってるいろんなことも、総じて「無駄」と言えるかもしれないなって。

もし未来にある「成功」から「直感」で導かれるままに行動することだけが、成功への道筋だとしたら、今までの自分がやっていたことは、ちっぽけで、小賢しいだけで、ほとんど意味のない悪あがきみたいなものだったのかも。

…と。

えーと、子育てしてると、子どもの進路とか就職で悩む人が多いでしょうけど、なにぶん他人のやることだし、私がじたばたしても始まらないことが多いです。
それで、私はいつも、「これはこの子の人生なんだから、必要なことは全部、この子自身が引き寄せるだろう。この子は子どもだけど、自分の運命を切り開くだけの力は生まれつき持っているはず。」

と考えて、それ以上やきもきするのをやめ、流れにまかせてきました。
その結果、ふたりとも、いろんな偶然を上手にとらえて、自分の納得する方向に進んできています。

だけど私は、つとむについてはいつも、成功するとは全然思えず、不安でいっぱいでした。
会社をやっていた頃もどっぷりうつ病だったので、見ていていつも不安だったし、筆文字をやり始めてからはさらに、売上も上がらないし、先行きも見えないし、正直、うまくいくイメージなんて皆無でした。

というか仕事がどうこう以前に、私はこの人の近くにいるだけで不安で心細い気持ちになるんで、ほんと相性悪いと思うんだけど…。

でも今日、ふっと思った。

「私は彼に成功してもらいたけど(今はそれが仕事だし)、でも、これはつとむの人生なんだから、なりたいようになるだろう。彼には、成功する権利もあるけど、失敗する、芽が出ない、貧乏なまま一生を終わるという人生を選ぶ権利もある」

つまり、すべては本人の思うままに、ということです。

もし、私たちの本質は魂で、大いなるおおもとの何かの一部であるとしたら、
そして、この地球上で人間の肉体を持った一生の過ごし方をあらかじめ決めて、選ばれて生まれてきているとしたら、
多分、経験することのすべてが正しい。
病も、苦痛も、苦労も、含めて、経験のすべてが愛おしい。

だって、あの世では苦しむという経験ができない。
願いはすぐ叶ってしまうので、目標に向かって必死に努力するということが物理的にできない。

そんな、究極の幸せの中からここへ来たとしたら、きっと、苦しみさえ楽しいはず。

なので、私は、自分が裕福になりたいからといって、つとむを無理矢理に成功させることはできない。
彼の本質的な部分がもし、失敗と失意を望んでるとしても、それを尊重しよう。
私には彼をなんとかしないといけない義務もないければ、権利もない。

だってこれ私の人生じゃない、彼の人生だもん。

というわけで、私は今日、人は失敗や苦い経験を「選ぶ権利」さえ持ってるんだってことに、はたと気がつきました。
人間ってすごいね。

でも、じゃあ、私はどうなんだろう、私は、ここで、いったい何をしてるのかしら、という話になります。

最近では、こうやっていろいろ考える時間があるし、新しいアイデアも自由に考えて実行できるし、ほとんどストレスはありません。

毎日幸せだけど、でも何かが決定的に間違ってるという違和感は、ずっとずっと、深いところでずっと、感じてます。小さい頃からずっとね。

だから、苫米地さんの説に戻って、未来からのヒントが私を導くままに、ますます直感重視で突っ走ろう(あるいは好きなだけ引きこもろう)と思います。

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