このブログで常時読まれている記事のひとつがこれで
読み返してみたら良記事でした、私にとって(; ;)ホロホロ
2011年の記事で、その時点ですでに色あせていたボトルは現在こんな感じ。
2000年代前半、私はオーラソーマ以外にも、パワーストーンとか、占いとかもはまってた。開運のおまじないを唱えてたときもある。もちろん斉藤一人さんのテープもきいた(今もときどき聞く) バシャールやエイブラハムのチャネリング系の本や動画もこの頃から好きだ(バシャールとエイブラハムは今も大好きだ)
オーラソーマについては、先日、長女から長い手紙で責められて、おかあさんはオーラソーマとか宝塚とか好きにお金を使って、それに見合う金銭的な成果はあったの? と問いただされて、
辛いです。
オーラソーマがあったから、●●円の成果を得ましたなんて、証明できるわけがない。
その救いは精神的なもので、マインドのケアで、金銭的な報酬に直接つながらなかったかもしれない。
でも、私が、人生の主体たるこのわたしが救われ、耐えられ、なんとかがんばろうとう気持ちになれたことを、成果がなかったと言うのは絶対に間違ってると思う。
金銭的な報酬を得る前に、私が生きていなかったら、あるいは健康に生きていなかったら意味がないじゃん。
というか、私はたぶん、オーラソーマで一時的にラクになったけど、根本的には救われていなくて、やっぱりいつもどこかで、人を恨み自分を責め立て歯を食いしばって金銭的な報酬のためだけに生きてきたと感じてる。
それの生きかたは辛くて、もう無理だと思ってる。
それなのに、長女から手紙で、あんなオーラソーマとか全部意味なかったんじゃないの的な言われかたをして、それにたいしてろくに反論もできない自分が、どうしようもなくイヤです。
とりあえずどこかで弁明だけはしておかないと。
長女に対して。
でもつらい。
こんなことのために、耐えがたきを耐えてがんばってきたのかと思うと、もう全部、やめてしまいたくなる。
昨日、ふっとYouTubeで斉藤一人さんの音声を聞いてたら(いっぱいある!増えている!)、
「成功しないのはあなたに徳がないから」
と言っていて、徳というのは、まわりの人に感謝して、みんなを幸せな気持ちにさせるような笑顔で暮らして、いつも感謝の気持ちでありがとうって言ってるような感じをさすようで、
それはまったくその通り。
成功するしないはもうどうでもいい。
私もそういう人になりたく、そういう暮らしをしたい。
でもそれができない辛い時期もある。というか、私にはあった。
はたから見てどんなに無駄だったと思われようと、
私はオーラソーマに救われた。
友だちの家で、このボトルの全色そろったのを見たときの感じを今でも覚えてる。
世の中に、これ以上に美しいものはないだろうと思った。
今でも、これを超えるものは見たことがない。
アートとかもすばらしいものが多いんだろうけど、きれいに作ろうとか何かを表現しようとかいう人の意図が入ってない美、じゃないかと思ったりもする。アートのことよく知らないからなんとも言えないけど。
私はボトルを全部揃えたわけじゃなく、買える範囲で、欲しいときに1本ずつ買っただけで、それもオーラソーマの正しい使い方じゃなかったんだろうと思うけど、そういうのをいちち責め立てないのがオーラソーマのいいとこだと思ってた。
だから、オーラソーマは良いセラピーだったと思うし、
その他の、私が学んだいろんなものも、その時の私にとって、必要なものだったと確信を持って生きる。
だいたい、無駄なものなんて、この世にないし、ましてや他人からそれは無駄だったと指摘されるいわれもない。
私の人生は私のもの。
人生をこの手に取り戻す。
この魂の叫びは「エリザベート」の歌そのものだ。
魂の叫びが込められた作品だから胸を打つのかもしれない。