名古屋市南区弥次ヱ町で脳内タイムスリップ!

昨日は雨だったので、eXe友のKUROさんと鶴舞でランチするのに電車ではなく車で行って、おいしいタンドリーチキンカレーを食べましたよ…♡

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…というところで話は終わらなくて、その帰り道です。

navi君の言うとおりに、前浜通を右に曲がって上り坂(線路をまたぐ橋)をのぼってくだった瞬間、右手に見えるガイシホールの場所に、かつて黄色っぽいクリーム色に塗った長い壁があったのを、突然思い出したのでした。

壁の途中には一カ所だけ、門があったけど、それ以外は延々と続く壁でした。

この道を通るのは毎度のことなのに、ガイシホールはガイシホールにしか見えなくて、黄色い壁のことなんか今の今まで忘れていたのに、とびっくりしながらちらっとNaviを見ると、道の左側に「弥次ヱ町(やじえちょう)」の文字が。

あーそうそう、弥次ヱ町。
ちょっと進むともう北頭で、町名が変わってしまう。
私が幼稚園の頃に住んでいた場所はちょうど今、このあたりのはず!

そう気がついた私は、目の前の細い道を左折。

そうしたらなんですかもう、デジャヴ感というのか、この奇妙な懐かしさはどうよ?

私がそこに住んでいたのは昭和36年から40年頃で、気がついたらそこにいて、幼稚園の年長で大府に引っ越すまで住んでいました。つまり3歳から5歳までの記憶しかありません。

でも断片的に当時の風景を覚えています。
当時はまだ田んぼが広がって、走る車と言えば三輪トラックくらいのもので、あたしはあの三輪トラックが、前からみると顔に見えて、怖くてしかたなかったこと。
夜になるとラーメン屋さんが回ってきて、あの奇妙なラッパの音(チャルメラ?)がやはり怖くて泣いたこと。

社宅の南側には「きがたやさん」と呼んでいた木材加工工場があって、いつも削った木の良い匂いがしていたものです。

住んでいた社宅の部屋は、当時最先端の鉄筋コンクリートの2K。
一番ふるい記憶では、母親が風呂場に金盥(たらい)を置いて、洗濯板で洗濯してたのを見た記憶があります。(すぐに洗濯機が登場して金盥は引退しましたが。あの、右側に2本のローラーがついてて洗濯物をはさんで絞るヤツです)

今では当然ながらあたりは建物で埋まり、路地は一方通行が多いので、適当に左に回ったら前方になにやら団地っぽい集合住宅を発見。

あっ!
この団地、遊びにきたことある。
当時はこんな色じゃなかったけど絶対にここだ。歩いてここまで来た!

また記憶のフラッシュバックがあって、動物的な勘で、だいたいこっちに違いないと、一方通行をぐるっと回り込むと、はい。ありました。この建物がそれです。

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この門柱を見て思い出したんだけど、当時は「弥次ヱ荘」という名前でした。
いや〜、昭和30年代のアパートですから、とっくに取り壊されているかと思ったわー。

私が住んでいた頃、ここは父親が務めていた会社の社宅で、色はこんなんじゃなく、普通にコンクリートの打ちっぱなしだったはず。
入り口の前には砂場があって、いつも社宅の子どもたちが遊んでいました。そのスペースは今はなくなって、どこかの建物がたっています。

私たちが住んでいたのは多分手前の階段を上がった2階の右側で、台所の窓から北を見ると、田んぼの向こうに市電が走るのが見渡せました。
今では「環状線」と呼んでいる55号線ですね。笠寺の向こうでぐるっと向きを変えて、瑞穂グラウンドから桜山に抜けていく路線があったのです。

4歳からピアノを習わされていた私は、毎週、母親に連れられて、その市電で桜山まで通っていたので、その道中に毎回、紡績工場の黄色い壁を見ていたのが記憶に残っていたんですね。

まあ…当時から町工場の多いがさがさした地区でしたが、こんなにぎっしり建物が並んでいてさえ、なんだか地面からわき上がるように、当時の「気配」が漂っていて、鳩が巣箱に戻るみたいに、引き寄せられるようにこの建物にたどり着いた私。

なんかすごい。
自分の中に、そういう太古から眠っていた未知の能力が目覚めたがした、昨日の出来事でした。

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ちなみに、wikipediaによると、ガイシホールの場所にあった黄色い壁は帝人名古屋工場だったということです。
それから、目印になった集合住宅が私の記憶通りのものだとすると、その北側に小学校があったと思うんですよね。どこへ行ったのでしょうか。それとも、あれはもっと南の南光中学だったのかな。地図によると南光中学の南側にも団地があるから、遊びに行ったのはそっちだったのかも。

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