赤毛のアンは私の一部だったし、今でもそうだと思い出す。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」が始まって1週間。

何を隠そう、この私、小学校5年生で「赤毛のアン」の新潮文庫版を読んで、すっかりはまりまくり、続編をどんどん買い足して、全巻読破。
特にアンの少女時代から新婚時代くらいまでの数冊は、ほんとうにステキで、何度も何度も読み返して、

「大きくなったらアン・シャーリーのようになって、ギルバートのような人と結婚して、プリンス・エドワード島のような壮絶に美しい自然の中で暮らす」

と思い込んだのでした。

もちろん生活の中でもアンになりきり、その結果、5年生の担任とケンカして、帰宅すると「もう二度と学校へは行かない」と宣言。(そういうエピソードが作品に出てくる)

しかしアンの場合と違って、私には話に耳を傾けてくれる人もいなくて、その作戦はあえなく頓挫するとか。

その後も、アンになりきるあまりに、普通の遊びができなくなり、そういう話につきあってくれる特定の友だちとしか遊ばなくなって、ついには6年生の時の担任から
「本を読むのは、架空の世界への現実逃避だ。もっとちゃんと現実にいなさい」
と、空想を全否定されるなど。

その時まで、自分のしてることがまさか「現実逃避」というすごく悪いこと(と言われたように感じたのでした)、とは思っていなかったので、心底びっくりして、それ以来、自分が本を読んでることすら、人には隠すようになって、今に至るという。

一連の出来事の発端になったのが「赤毛のアン」で、
忘れられない作品で、
今読み返しても、最後の作品「アンの娘リラ」なんか、第一次大戦を、強烈な反戦思想で描いていて、最後の方(駅のシーン)では、何度読み返しても涙腺崩壊。
そしてもちろん、最後のシーンも、ほんと、ステキですね。

私、世界で一番すごいのはトールキンの「指輪物語」だと思うけど、世界で一番好きなのは、今でも「赤毛のアンシリーズ」です。

正直、あまりに好きすぎて、
その後出たアンの関連本(お菓子作りとか、いろいろ出てる)が、読めないくらい。
あまりに自分の描くアンの世界と違うので、耐えられないのです。
(同じ理由で宝塚版の「ベルばら」が今だに耐えられない)

とにかく、その昔、アンは私の生活の一部で、アンは私、私はアン、というくらい、私の生活を支配した時期がありました。
大きな木が、そこにあった石とかを巻き込んで、自分の幹の内側に取り込んで成長してしまうことがあるけど、私にとってアンはそんな感じで、私を構成する要素のひとつとして取り込まれ、今でも行き続けている存在なのです。

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と、そんなことを書く予定ではなかったんだけれども、
50代になってようやく、アンの熱烈ファンだったってことをカミングアウト、です(¨;)
もはやだーれもそんなこと、気にしちゃいないけどな。。

でもほんとに私、今でも、本を読んでるとき誰かが来たらいったん閉じるし、面白い本を見つけたとき夢中になって夜中まで読んでても、途中で誰かがトイレとかで起きてきたら、すかさず電気を消して寝たふりなどします。

なんか、怒られる気がするの。
きっと、小学校〜高校まで、本を読んでるのを見つかると、母親に怒鳴られてたせいだと思う。「本なんか読んでないで勉強しなさい!」って怒鳴るんです。昭和の母親だよねえ、まったく。教育ママっていう言葉があってね、あの頃は。。。。

で、何の話だったっけ?

ともかく、本を読むのは私の中で「現実逃避」で「やってはいけない悪いこと」だったこの半生。それでも親や同居の家族に隠れてもうずーっとずーっと浴びるように本を読んで暮らしてきました。

当時はまだゲームがなかったから本にはまっただけで、時代が違えばゲーム廃人だったかも。廃人のハシリですかね。

朝の連ドラは、だから、きっとまた違和感ありすぎて見られないかもと思ったんだけど、主人公はアンではなくて村岡花子で(もちろん私が小5で読んだ新潮文庫版は、村岡花子訳でした)、子役が体当たりだし、脇役も名優揃いだし、私、毎回、泣いてます。

子どもって、演技じゃなくて、感情がそのまま出ちゃうのね。
今回の子役たちは、悪ガキも含めて、みんなすごい。

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