新しい子猫を、自分で望んで、決めて、もらってきました。

毎日の暮らしのなかに、少しでも癒しが欲しいと思って、スマホの待ち受けをこの写真にしたら…
(6月に授乳ボランティアで育てていた子猫のなかの一匹)

見るたびに、可愛らしかった小さい頃を思い出し…

3匹中、黒とキジトラはウィルス性鼻炎がひどくてミルクを飲めなくて、2週間以上体重場まったく増えず、死ぬかと思って、毎回、苦労してミルクを飲ませたり、強制的に缶詰のフードを口に押し込んで食べさせたりして、かかりきりだったけど、いちばん身体の大きかったこの白黒は、鼻炎からの回復も早かったので放置して、あまり可愛がることもなく、返却してしまったので、心残りでした。

それで、何日も迷ったあげく、今日、思い切ってシェルターを訪ねて様子を見たら、こんなにシュッとして元気に。

きょうだいの黒とキジトラはまだ鼻炎が治りきらず、2匹で隔離されているので、この白黒は1匹でゲージに入れられて、私が行ったときちょうどゲージの掃除の最中だったんだけど、めちゃくちゃ元気で、走るわ噛むわの大騒ぎをしていました。

それで、それからまた30分くらい迷ったんだけど、このまま帰ったら引き取るタイミングを失って、私は二度とここに来ないだろうなーと思ったら、もう、「飼うなら今でしょ!」って感じになったので、その場でひきとって、家に連れて帰ってきました。

今まで通算10匹以上、猫を飼ってきたのに、なぜ今回、こんなにも優柔不断に迷いまくったかというと、

・これから10年以上、いままでどおりに、この家で猫を飼えるかどうか不確定である

という状況があります。今まではなにしろ子どもたちがいたので、絶対、この生活はなくならない、と確信していられたんだけど、今となっては。。。

さらに、もうひとつ。
今まで飼った猫はすべてが「持ち込まれた野良猫」で、なりゆきでしかたなく、飼うしかなかったのに対して、

今回は、最初からシェルターの猫で里親捜しをしてもらえるんだから、わざわざ私が飼う必要がないのに、私が「欲しかった」っていう、その動機。

実は、こんなふうに、子どものためでもなく、なりゆき上しかたなく、でもなく、ただ自分が欲しくて、何かを手に入れた、ということが、思い返せばずーーーっと、ない。

え?
うそ、いつから?

って思うくらい。まったくない。

服や化粧品のたぐいを買うとか、年に数回宝塚を見に行ったとかはあるけど、10年も続く大きな選択を、自己責任でしたことが、あまりない。今回の、仕事をやめてパートに出ることを決めた件につづいて2件目というくらいの珍しさ。

仕事やパートの話は自分がやりたいことというより、やりたくないことをやめる選択なのに対して、子猫をもらうのは、純粋に可愛くて欲しかったから。何の意味も、目的もない。ただ欲しい、だから手に入れた。

こういうことを、私はなぜか自分にすごく制限していて、
何かに役立つのでなければ、あるいは私以外の誰かが喜ぶのでなければ、単に自分が喜ぶだけだったら却下するのが、習い性になっていたんだけど。

それはおかしい。

自分の「欲しい」を無視し続けて、他人の「欲しい」ばかりを実現して、いったいそれは誰の人生なのかと。

ほんとにさいきん、そういうことをよく考えるんだけど、

ともかく、これから10年も15年もずっとこの子を飼っていけるかどうか分からないけど、でも、できると信じて、あるいは「やる」と決意して、私らしい人生を始める。

と決めて、どきどきしながら子猫をもらいました。

これからは、好きなものを選び、興味のないものはスルー。
楽しいことを優先して、つらいことは後回し。
猫を飼うにも、病気やケガや行方不明の心配をするよりも、日々の暮らしの中で見せてくれる可愛らしさを、毎瞬、喜びとして味わって、まずは私が幸せを感じて、生きようと思う。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク