この記事は2013年12月26日に書いたもので、内容が古い可能性がありますのでご注意ください

靖国神社にわたしは〜いません、眠ってなんかいません〜♪

気がついちゃった!

何十年もくり返されている靖国神社参拝にまつわるあれこれ、いつも違和感があって。
もはや戦後ではない宣言のあとに生まれて、平和憲法で育った私ですから、愛国心と靖国神社がどう関係するのかどうしても理解できません。

でも違和感の元は、もうひとつ、私は

「死んだら魂は風になって大空を吹き渡っていく」

と、けっこう本気で思ってるから、なんですよね。
多分、靖国神社でも仏教のお寺のお墓でも、そこには誰もいないんじゃないかと。

(小さい頃から私は、人は死んだら生まれる前にいたところに帰るに決まってるじゃん!と思っていました。そうじゃないなら、いったい、人はどこからここに来たというのでしょう。まさか無から沸いて出たとでも?)

なので、前の戦争で亡くなったたくさんの人たちは、まことにお気の毒ではあったけれども、すでにずっと前にこの苦ばかりの現世から解放され、大空を、宇宙を風となって自由に飛び回り、そしてとっくの昔に、新しい魂となって、どこぞの人間の中にやどっているに違いないと、思うわけですよ。

だから、靖国だろがどこだろうが、参拝するのは自由だけど、「そこには誰もいま〜せん」ってことなんじゃないのかな、と。

もし魂が見える眼鏡をかけていたら、人々は何もない空間を拝んでいるのではないかしらん、と。

それでも、頭を下げる行為自体は美しいし、尊いから、否定はしません。

けれども、それを不愉快に感じる人がそこにいるのに、わざわざするほどのことかと。

あるいは、不快感を感じる人がいるから、あえてそれをするのか?
それがいわゆる「外交」というものなのかしらん。
いろんなサインを送り合って、けん制したり、挑発したりする、何かのサインとかゲームみたいなもの?

そうだよね?
これって、魂の話じゃなくて、外交なんだよね?

あーほんとに人の世は奥深くて、手続きがややこしくて、アタシには100回生まれ変わっても、到底、理解できそうにありません。

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