この記事は2012年7月25日に書いたもので、内容が古い可能性がありますのでご注意ください

死ぬということについて

ミーちゃんが死んで、偶然なのか導きなのか、この数日、死について、読む機会がありました。

口耳四寸記: 「なんまんだぶ しながら安心して死んでけ。」

世の中では、人が死ぬと「かわいそう」と言う。若すぎる人が死ねばより強く「かわいそう」と言う。死はこの娑婆との一時の別れでもあるから、その気持はわからなくもないし、別れを痛む気持ちは否定するものではない。

しかし、死を、単なる不幸な出来事としてしか捉えてほしくはない。死が不幸であれば、その人の生も不幸であることになってしまう。不幸な死という認識は、その人の人生全てを不幸なものにしてしまうことになることでもある。

私は浄土真宗の僧侶である。だからはっきりと申し上げる。

死は、不幸なことではない。

まったく同感です。でも、死んだ人はともかく、残された人が不幸なのは確かなことですね。

あの、自殺しちゃった中学生も、すべてのイヤなことから解放されて、今は静かに仏様になってるかもしれないけど、残された親御さんの気持ちとしては、そんなことでごまかされてたまるか!…と思いますよね。ご自分の気持ちを慰めるために、とことん戦われたらいいと思います。そういう供養のしかたも、あるよね。
同じ立場だったら、私も、そうします。

でもあれですね、自殺するにしても、死ぬまえに、自伝みたいな長い遺書を書いて、会う人会う人をつかまえて誰それにいじめられてるっていいふらし、証拠の写真や音声、日記などをがっつり残し、最後にいじめてる子の家の窓に石を投げて割って、できれば本人に向かっても何か固い物を投げつけるなどして気分がすっきりしそうなことを全部やってから死んだらいいのに。

ま、そんなことができるなら、そもそも死んでないんだろうけど。

そういえば、美内すずえの漫画「ガラスの仮面」の冒頭で、そんなシーンがありましたね。
主人公が飢えて行き場がなくて、もう死のうと決めて、どうせ死ぬなら最後においしいものを食べてから死のうって思って、レストランから食べ物をかっぱらって来て、がつがつ食べて満足して、じゃあ死のうかなってナイフをのどに当てた瞬間に、「あ、私、自力で食べ物を手に入れて生きてる。まだできることはあるかも」と気がついて、死ぬのをやめるという。

みんな、もっと、こういう漫画、読んどいたらいいのにね。

永遠に生きるために / サリー ニコルズ

余命わずかな少年が、死ぬって何?死ぬって痛いの?死んだらどうなるの?っていう疑問を日記に書いていくという設定の小説です。
思うほど暗くなく、文章がほんとに、透明感があるというか、さわやかで、一気に読んでしまえるわけですが、そんなにドラマチックな山場があるわけでもないんだけど、ほろりと泣けます。

なんか、死ぬのがかわいそうなんじゃなくて、人生が美しくて泣けます。。

作者はまだ若い女性で、大学の授業の制作物として書いた本のようですが、本人のすなおさ、純粋さがそのまま、文章に出てんじゃないかなって、想像します。
「キッチン」の吉本ばななみたいに。

さて、私はそういうわけで、かなりの勢いで、抜け殻っています。

スーパーへ買い物に行けば、無意識にミーちゃん用の魚を探している自分に気がつき「ああ、もうミーちゃんはいないんだ」
食事時には、誰も食べ物をねだりに来ないので、すぐに食事が終わってしまい「ああ、もうミーちゃんはいないんだ」

いなくなって初めて、この数ヶ月、いかにミーちゃんに手をかけていたのか、気づくという具合。

手間のかかる子ほど可愛いというけど、ほんとに。

でも、白猫ピースケの時は突然だったこともあって、抜け殻どころでなく、何日も涙が止まらなくて、泣いてるつもりはないのに、涙が垂れてる状態で、ヒトとして使い物にならない状態でしたから、それに比べたらずいぶん軽症です。

数日で復活するでしょう。

でも、ここんとこたてつづけに、英語の先生はいなくなるし、ミーちゃんは死ぬし、大切にしていたものが去っていく相なのは間違いないですね。
こういうのって、曲がり角が来たよのサインだと思うので、私も、いつまでも過去をひきずってないで、新しい一歩を踏み出せるように気持ちを持って行かなくちゃって、思ってます。

別れは出会いの始まり。
なんちゃって。

…いやいや、猫はもういりません。
まだ4匹と、居候が1匹、残っていますから!

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