この記事は2009年3月21日に書いたもので、内容が古い可能性がありますのでご注意ください

残された人生時間を有効に活用する

父が亡くなったことは家族にとっては寂しいことですが、そのこと自体が悪いこととは思いません。死ぬということはネガティブなことだとも思いません。

なぜなら、人は死んで肉体や精神はなくなっても、魂というか意識というか、存在はなくならないからです。

ええ、確かに私は「オーラの泉」のファンですが^^;
江原さんがそういうからそうなんだ、というんじゃなくて、私自身、生まれる前(前なのか後なのか)の、今の自分の中にいたときじゃない、地球上じゃないけど宇宙空間でもない、どこか分からない「どこか」にいたときの気持ちを多少覚えているからなんですよね。。

だから江原さんの言うことも話半分に聞きつつも「ああ、そういうこともあるよなぁ」って…。

うんと小さい頃には、まだ半分そっちの世界にいるような具合で、この世界のことがさっぱり理解できなくて、まわりのみんながしていることの意味が分からず、右往左往したものです。

でもまぁ、長い学校生活を経て、だんだん「人間らしく」振る舞えるようになって、今ではほぼ完璧に普通の人のフリできるようになったんだけれども。

なので、死は、セミの幼虫が、この世という「地中」から出て羽化するような感じで、開放であり卒業であり、そもそもの始まりである故郷に戻ることなんだと、いうふうに、実は小さい頃から感じていたんですよね。。

死ぬっていうことは、ここに来る前にいた場所に戻ることであって、そちらには、私の本当の家族がちゃんといて、ずっと待っていてくれる、という確信めいた感覚…。

死にまつわることはタブー視されているので、日常生活では滅多に話題にできませんが。
今日は、ついでと言ってはなんだけど、せっかくの機会なので、書いておきます。
今後はこういうことを書く機会も増えていくような気がしますけど…。

では、もしも、事実が私の思うようになっているとしたら、なぜ人はこの世に生きているんでしょうか?
あちらが故郷だとしたら、こちらは何なんでしょうか。

答えは人によって違うというか、その人が選択するものだと思うけれども、こうして父の死に接して思うことは、目的がなんであれ、与えられた時間は有限だ、ということです。

父が自分の一生にどれくらい満足していたかは、他人には分からないことですが、自分のことは分かります。私は、まだまだこの一生でやれることがあるだろう、という気がしています。

子どもたちがとりあえず健康に大きくなって、それぞれの進路を自分で考え始めるまでになって、私としても、与えられた課題をひとつクリアしたような、達成感と安堵感があるんですが、人生の大きな課題を終えたこれからが、いよいよ本番かなと、そういう感じもしています。

「本番って何なのさ」
って、それ自体が自分でも謎なんですが^^;

でも多分、上に書いたような、今までずっと人には言えずに胸のなかにしまってきたさまざまな思いを、自分が率先して公開して、世界にたくさん、散らばっているであろう仲間たち(同じように孤独な思いをしている人たち)に、メッセージを伝えることかなと、思ってます。

…なんじゃらほい、な話ですが。
(でも当事者にとっては重要な話)

まぁ。救いを待っているだけじゃ、何も始まりませんからね。
有限な時間を無駄にしないように。
有意義に使いたいものです。

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